お山の歴史が知りたい~善通寺・五岳山~

第三十一回「お山の歴史が知りたい~善通寺・五岳山~」

中讃を代表する山といえば?
一番に名が上がるのはやっぱり、丸亀市と坂出市にまたがる飯野山でしょうか。なだらかな裾野の美しい山容は、讃岐富士と親しまれる所以でもあります。

でもね、善通寺市にもあるんです。古い歴史を持つ価値ある山「五岳山(ごがくさん)」が。
五岳山は五つの独立峰の総称です。
総本山善通寺の借景となる香色山(こうしきざん)、その西に見える筆ノ山(ふでのやま)、五つのうち最も標高の高い我拝師山(がはいしさん)、鳥坂峠を見下ろす火上山(ひあげやま)、火上山と我拝師山との間にある中山(なかやま)。この五山がまるで屏風のように連なっていることから、昔は讃岐国屏風浦とも呼ばれていたそうです。


五岳山

なんとなくスケールの大きさを感じません?
過去にご紹介した金倉川のように、興味深い歴史ロマンが隠れていそう…。
ということで、地域のことに詳しい善通寺市教育委員会生涯学習課の松浦暢昌さんに、五岳山の歴史についてお聞きしました。

松浦さんがおっしゃるには、五岳山周辺にはおよそ2000年ほど前からの遺跡があり、昔から銅剣・銅鐸などの貴重な文化財が豊富に発掘されているそう。
これは、松浦さんが見せてくださった資料の一部。番号をふってある場所が遺跡や古墳、城跡などです。



限られた地域にこれだけの数!
中でも、弥生時代から古墳時代にかけての住居跡が数多く発見され、弥生土器や須恵器、ガラス玉、勾玉などを出土している旧練兵場遺跡(9番※旧陸軍第11師団の練兵場があったことから名付けられた)は、約50ヘクタールに及ぶ大規模な集落があったことが県と市の調査で明らかになっているとか。
50ヘクタールって東京ドームくらいでしょうか。もっと身近で言えば、総本山善通寺のあの広大な境内もほぼ同じ広さなんですよね。
香色山から望む丸亀平野にも同じ時代の集落遺跡は見つかっていますが、これほど大きなものはなく、この辺り一帯が大集落、むしろこの地域の中心都市的な存在だったのではと考えられています。

また、有岡古墳群の一つ、宮が尾古墳(24.25番)の壁画には船が描かれていることから、穏やかな瀬戸内海を利用した水運に関係する有力者の一族(豪族)がいたのでは!?と推測。もしかしたら、五岳山が航海の目印になっていたかもしれません。
元々湧水が豊富な地域で、とても恵まれた環境。豊かな地には自然と有力な豪族が出てくると聞くし、善通寺市は非常に多くの古墳が密集する地域ですからとても栄えていたということですね。

もちろん、山そのものにもさまざまな歴史が息づいています。
たとえば、香色山山頂にある経塚。経塚とは平安時代頃にお経を埋納した塚であり、お釈迦様の没後に訪れる末法の世において救いを求めたもの。山頂では経塚と並んで弥生時代の墓も発見されていて、大昔から、香色山という場所に特別な意味があることが伺えます。
ちなみにこの経塚、全国初の2段構造として発掘当時とても話題になりました。写真は香色山山頂の経塚と、出土した経筒(経典を納めたもの)や土器、刀剣などです。




また、火上山の麓には西行法師ゆかりの西行庵というお堂があり、中山と火上山の山間部には中世の山岳仏教寺院があったと伝わる大窪寺跡があります。
記録によると、平成元年に再建された西行庵は江戸時代にも数回再建されていて、とても大切にされてきたことが分かります。また、大窪寺跡周辺には石積みがあり、当初は寺院と関連して経塚と思われていましたが、実はそれよりも古い前方後円墳だと判明しました。

なんといっても善通寺市は弘法大師空海の生誕地であり、五岳山は幼少期の空海が修行をした山々とも伝えられています。古くから山岳信仰が強いのも納得です。
ちょっと余談ですが、当然ながら五岳山には金倉川のような“金銀財宝が眠ってるかも説”はありませんでした。残念(笑)

このように、五岳山周辺は五つの山が中心となって歴史を刻んできた地域。
先人たちはこれらの山を崇め、共に暮らし、発展してきたのです。

今、善通寺市では五岳山の魅力と歴史を後世に伝えるべく、さまざまな取組みがされています。
現代のパワースポットで繰り広げられている注目の取組みについては、次回♪

善通寺市教育委員会生涯学習課
〒765-0013 香川県善通寺市文京町2-1-4
Tel. 0877(63)6328

※五岳山(中山)・経塚・出土品の写真は善通寺市教育委員会生涯学習課提供いただきました