智証大師さまの生涯

智証大師さま 智証大師さまは弘仁5年(814)、讃岐国金倉郷に生まれました。父は宅成、母は佐伯氏の娘で弘法大師さまの妹(または姪)にあたります。智証大師さまの幼名は廣雄とい、弘法大師さまが3歳の智証大師さまを一目見て「智慧童子」と言わせるほど聡明でありました。また5歳の時には、境内で遊ばれていた智証大師さまの目の前に訶利帝母さまが現れ、智証大師さまを守護を誓われたといわれています。

幼少の時より経典になじみ、8歳で「因果経」というお経を学び、10歳で「論語」、「漢書」、「文選」といった漢書を学ばれ、早くから僧侶になることを望まれていました。天長5年(828)、叔父の僧仁徳に伴われて比叡山に登り義真和尚に師事、天長十年(833)には、義真和尚による菩薩大戒を受け正式に僧侶となり、円珍という名を授かりました。

比叡山では最初に僧侶に12年間の籠山行が課されます。智証大師さまが籠山して5年が過ぎた承和5年(838)冬、金色の不動明王さまが現れ「早く密教を学び、人々を救いなさい」と語られ7たといわれ、智証大師さまは密教の修学に励むようになりました。この時の不動明王さまのお姿を図画したものが、日本三不動の1つ、黄不動尊(国宝)として今も三井寺に保存されています。

12年の籠山行を終えた智証大師さまは、翌年比叡山で密教の最高責任者である真言学頭に推挙されました。またこの時期に南紀大峯山に向かい、かつてこの地で山林修行をしたという神変大菩薩さまに習って、那智の滝の下で千日間修行をした、とも伝えられています。

仁寿3年(853)、40歳になられた智証大師さまは、かねてより望んでいた唐への留学が認められ、入唐求法の旅へと出発されます。在唐は6年に及び、各地を遍歴し、種々の経典や法門を授けられました。

帰国した翌年、三井寺を修繕し、唐房(唐院)を建てられ、持ち帰った経籍を収められました。貞観3年(861)、伽藍の造営を終えた道善寺(後の金倉寺)の落慶の斎会に参加されるため、讃岐の地を訪れました。

貞観10年(868)6月3日、智証大師さまは第五代天台座主に勅任されます。以後智証大師さまが入寂した寛平3年(891)10月29日までの24年間、鎮護国家のため尽力し、また仏法興隆のため多くの人材を育てられました。