新羅明神について03

現在、金倉寺横にある新羅神社では、素戔嗚尊をお祀りしています。
なぜ新羅明神ではなく、素戔嗚尊なのでしょうか。

※この記事はYUJ第16号(平成24年1月中頃発行予定)の草稿です。
http://www.kagawa-konzouji.or.jp/yuj/


新羅神社の石碑

素戔嗚尊は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)より生まれた神で、天照大神(あまてらすおおかみ)、月読尊(つくよみのみこと)と共に三貴神と呼ばれます。

素戔嗚尊は海原を治めるようにいわれましたがその任務を怠り、また姉である天照大神が治める高天原で暴れたため、高天原を追い出されてしまいます。
こうして出雲国(現在の島根県東部)へ降り立った素戔嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、奇稲田姫(くしいなだひめ)と結婚し、子の大己貴神(おおあなむちのかみ)に出雲国を任せて、自身は母の住む根の国へといくのです。

素戔嗚尊の神話はおおよそ以上のようなものですが、『日本書紀』には出雲国へ降り立つ前に新羅の国へ立ち寄ったとも伝えられています。

新羅の国の曽尸茂梨(そしもり)に降り立った素戔嗚尊は、「この地に私は居たくないのだ」と言い、土で船を作って東へ向かい出雲国へ着いたそうです。
ここでいう曽尸茂梨とは「ソホル」のことで、「都」を意味します。
つまり新羅の首都に立ち寄ったということです。
また、「韓郷(からくに)の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、船がなかったらよくないだろう。」といって、船の材料となるスギ、ヒノキ、クスノキなどを造った、ともいいます。
このように、素戔嗚尊は新羅と関係が深い神でもあるのです。

もともと素戔嗚尊は、紀州須佐周辺(現在の和歌山県有田市)の漁民の神であったといわれています。
『古事記』では「速須佐之男命」と表記されることから「須佐の男神」であることが分かります。
5~6世紀頃、この漁民たちが紀伊国造(きのくにのみやつこ)率いる水軍の配下に取り込まれるようになります。
こうして須佐の漁民たちが、半島への渡航や遠征などを行ったことにより、もともと新羅とは関係なかった素戔嗚尊が新羅の神と同一視されるようになってきます。
それを物語るのが、「スサノオ」という名前です。
たとえば「素戔嗚」という漢字は、本来「スサオ」としか読めません。
朝鮮半島では「ススン」というと「神に仕える人」を意味し、「スサオ」がこの語に通じると考えるようになりました。
また新羅第二代王の名が、「神に仕える人」を意味する名であることから、いつしか素戔嗚尊が新羅の神と同一視されるようになったようです。

このような経緯で「新羅の神=素戔嗚尊」と考えられ、新羅神社の祭神として素戔嗚尊が祀られるようになったのではないでしょうか。