金倉寺の歴史

金倉寺の創建は宝亀5年(774)、弘法大師さま誕生の年に、 和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、 一堂を建立してお祀りしたことに始まります。 このお堂は自在王堂と名付けられ、道善の子である宅成(やかなり)によって、 道善寺と改められました。 この宅成の長子が智証大師さまです。

父宅成の度重なる奏上と智証大師さまのご活躍とにより、 仁寿元年(851)道善寺は官寺となります。 唐へ渡りさらなる研鑽をつまれた智証大師さまは、唐より帰国後、 故郷である道善寺に立ち寄られ、唐の青龍寺を模範とした伽藍の造営を行われました。 この時に智証大師さまは訶利帝母さまの神像を刻んで訶利帝堂を建立されました。

延長6年(928)、醍醐天皇の勅により、 地元である金倉の郷名をとって金倉寺と改められました。 この頃の金倉寺は隆盛をきわめ、南北2里、東西1里の境内地に、 僧院は132、講衆は千を超えていたといわれています。

その後の度重なる兵火によって、金倉寺の伽藍や重宝は焼失してしまい、 百年ほど寺僧不在の状態となりました。 慶長11年(1606)には、困った檀家衆が郡家村にあった真言宗の長福寺に 寺の後見をお願いしたことから、一時真言寺院となったこともありました。

そのような現状を知った高松藩主の松平頼重公は、 古くから親交のあった天台僧の喜楽院算海に相談し、 当時金倉寺の住職であった真言僧の了翁を天台宗に転宗させました。 慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し、 石高30石を寺領として寄進し、金倉寺を再興され、現在にいたります。

また、明治31年(1898)10月より明治34年5月までの間、 善通寺第11師団長として赴任された乃木将軍が、金倉寺を宿舎とさだめ、 滞在されたことでも知られています。

金倉寺ゆかりの人々

松平頼重

松平頼重

高松藩初代城主。元和8年(1622)水戸藩初代徳川頼房の長男として産まれましたが、 兄2人にいまだ子がなく、末弟である自分に世嗣ができることをはばかり、 家臣に託したため、16歳になるまで父頼房と会うことすら許されませんでした。

翌年には正式に嫡子として認められましたが、 水戸藩の世嗣は弟である光圀に決まっていました。 そんな頼重の身上に同情した将軍家光によって、 寛永16年(1639)常陸下館藩主に封ぜられ、寛永19年には高松藩主に転封されました。

高松藩主として、頼重は上水道の敷設や新田の開発、 寺社整備など高松藩228年の礎を築きました。 また金倉寺再興の大壇主として、伽藍の整備や寺領の寄進を行い、祈願所と定めて、 愛染明王像、五大明王像、黄不動明王像を寄進しました。

延宝元年(1673)家督を弟光圀の実子である頼常に譲り出家、元禄8年(1695)に74歳で遷化されました。

松田俊順

松田俊順

金倉寺中興第12世住職。文政5年(1822)香川県詫間の塩田名主であった松田元俊の次男として生まれ、7歳の時に禅僧であった元福に請われてその養子となりました。 後に金倉寺中興第10世の弘順の室に入り、名を俊順と改めました。

大阪に出てさらに仏道を学び、備中の寺院住職を経て、弘化4年(1847)再び香川に戻った俊順は、さまざまな寺院を再建し、長尾寺の住職となりまし た。長尾寺でも多くの人を教化し徒弟を育てた俊順は、その手腕を買われ明治7年(1874)金倉寺の住職となりました。

俊順は高弟の俊良(金倉寺中興第13世)と幾人かの侍従と共に金倉寺に入り、金倉寺においても中務茂兵衛を筆頭に多くの徒弟を育て、金倉寺を再建しました。こうして多くの弟子に囲まれた俊順は、明治17年(1884)63歳で遷化いたしました。

中務茂兵衛

中務茂兵衛

22歳から78歳までの56年の間に279度の四国遍路を満行した四国遍路の大先達。

茂平衛は弘化2年(1845)4月30日、山口県の椋野村で中務家の三男として生まれました。 俗名は亀吉といいます。

慶応2年(1866)、22才で故郷を離れて四国遍路を始め、 明治10年(1877)金倉寺の松田俊順師について得度、「茂兵衛」の名を授かりました。明治19年(1886)、42才で四国遍路88度目為供養として標石(しるべいし)を建立を始め、 44才で100度目の標石を建立しています。 明治24年(1891)10月20日には聖護院より僧としての度牒と 「義教(ぎきょう)」の僧名を賜りました。 その後も精力的に四国巡拝を続け、大正11年(1922)2月23日、 高松市の久保ちか子方で遷化するまで休むことはなかったといいます。