乃木将軍と金倉寺

乃木将軍 明治31年(1898)10月3日、乃木将軍は善通寺第十一師団長に補任されました。第十一師団はこの年に新設された師団であり、乃木将軍はその初代師団長として善通寺の地に赴任することになりました。乃木将軍は今度の職務を「戦時における状態」考えて、愛馬「轟号」と馬丁の鎌次郎を伴って臨みました。そして宿舎として金倉寺を選ばれたのです。

もともと宿舎は金倉寺を含め三ヶ所の候補があったそうです。乃木将軍は善通寺第十一師団と丸亀歩兵第十二連隊の両方の監督をしなければならず、立地の面から金倉寺になったのではないか、と想像されます。

乃木将軍が師団へ出勤する姿は「朝日を拝みながら向かい夕日を背にして帰ってきた」とお寺の方では伝え聞いています。つまり朝日が昇る東、丸亀の十二連隊へ出勤し、その後善通寺第十一師団で職務を執って金倉寺に戻ってこられたようです。

師団から金倉寺へ戻っても常に軍服で過ごし、来客にも軍服で応じたようです。また四国霊場ですからお遍路さんが見えることもあります。時には乃木将軍自ら納経に応じることもあったそうです。

また当時の金倉寺の食事は精進料理でしたので、別で用意したものをお出ししようと申し出ましたが、乃木将軍自ら望んで、お寺の僧と同じ食事をされたそうです。

乃木将軍妻返しの松

乃木将軍妻返しの松 金倉寺本堂脇にある大きな松、「乃木将軍妻返しの松」をご存じでしょうか。この松は乃木将軍とその妻である静子夫人のある物語を現代に伝えています。

乃木将軍が善通寺第十一師団長に就任した明治31年の大晦日、この日は昼過ぎから雪も降り夕方頃には辺りも薄暗くなっていました。突然、お茶室脇より「お頼みいたします」という婦人の声が聞こえてきたわけです。「どなた様ですか。」小僧の妙栄坊(後の金倉寺中興第14世俊雄)が尋ねると婦人は、「乃木の妻でございます。静が東京から参ったとお取次をお願いします。」とおっしゃいました。

妙栄坊は「閣下」と乃木将軍に声をかけ、「奥様が東京からお見えになりました。」と伝えました。しかし乃木将軍からの答えはなく、ただじっと妙栄坊の顔を眺めたままです。そこでもう一度大きな声で、「閣下、東京より奥さまがお見えになりました。」と呼びかけました。すると乃木将軍はポツリ、「別に会う必要はないでしょう。」

妙栄坊は思いがけず取次ができなくて困り、住職であった俊良に相談しました。俊良さんは「ともかく、夫人を奥座敷にお通ししなさい。」と妙栄坊に命じました。静子夫人と面会した俊良は、「私が将軍を説得いたしますので、本日の所はお引きとり願えるでしょうか。」と説得し、夫人は多度津の「花びし」という旅館に戻られることにされました。

夫人はその帰り道、本堂脇にある小ぶりの松の木まで歩を進めて、その下でもの思いにふけて佇まれたとか・・・これがいつ頃からか「乃木将軍妻返しの松」と呼ばれるようになり、とかく講談ではこの話がもてはやされるようになったそうです。

静子夫人が東京から飛んでこられるほどの急用とは何だったのか、乃木将軍が静子夫人に会われなかった理由とは何だったのか、それは現代の私たちも当時の人々と同様想像するしかありません。