「金倉」という名の由来

「金倉寺」という寺名は、地元の「金倉郷(かなくらごう)」という郷名から名付けられました。
では、どうしてこの地域を金倉郷と呼んだのでしょうか。


大黒さん

そもそも金倉郷の範囲とは、現在の丸亀と多度津町のほぼ中間を流れる金倉川下流域の平地をいいます。
この地名の由来は、智証大師の曾祖父である和気善茂が、この土地を開墾したときに金銀を得た、というもの。
しかし、金倉郷周辺で金や銀が採れたという話は聞きません。
それでは、どうして土地を開墾しただけで金銀を得ることができたのでしょうか。

それは、金倉郷の大部分が広大な荘園であったため、と推定できます。
鎌倉時代~室町時代、金倉郷の大部分は「金倉荘」と呼ばれる荘園地でした。
その範囲は、現在の善通寺市金蔵寺町、丸亀市金倉町と中津町に及びました。
金倉荘の定田面積は124町6反に達し、単純にいえば1200人以上の人を養えた(現在の貨幣価値でいえば30億以上?)ということになります。
この金倉荘は、3分の1が金倉寺、3分の2が本山である園城寺によって支配されていました。
和気善茂は当時、それだけの荘園地を開墾、支配したわけですから、さぞ裕福な豪族であったのでしょう。

またもう1つ、現在の善通寺市金蔵寺町、木徳町、原田町を「竜川」という大字を構成していました。
この地域の小学校や幼稚園を「竜川小学校(幼稚園)」と呼ぶのもその名残です。
なぜ竜川と呼ばれるのかといいますと、金倉川に竜が流れてきたという伝説にちなむもの。
金倉寺に龍神社があったり、「龍の角」と呼ばれる寺宝(非公開)があるのもそのためでしょう。
古来より龍は水を司るものとして、洪水が起きぬよう、また干害になれば降雨を願い、龍神に祈祷しました。
その龍が竜川の地に流れてきたということは、竜川一帯は早くより灌漑技術が進んでいたことを示唆します。
また金倉川河口付近であったことから、肥沃な土地だったでしょう。
また善通寺市は伏流水が豊富であり、実は水不足の時も取水制限など受けることがありません。
こういったことから、金倉郷は非常に優れた耕作地であったことが想像できます。

だからこそ、和気善茂がこの地を開墾し金銀を得た、といわれ、「金倉郷」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
真実は分かりませんが、「金倉」という縁起のいい名前が、この土地、また私たちのお寺に宿ったのは確かです。
皆さんも「金運向上」を願い、金倉寺を参拝されてみてはいかがでしょうか。