天台寺門宗別格本山金倉寺 Home年中行事アクセスお問い合せブログ 四国霊場第76番
 
智証大師
略歴
年表
著作紹介
 
 
乃木将軍
金倉寺での日々
略歴
年表
 
 
訶利帝母さま
日本最初出現之地
千人の子供たち
仏説鬼子母経 奉納絵馬ギャラリー
 
 
壇信徒の方へ
年中行事
法事 YUJ お問い合わせ
 
金倉寺かわら版

智証大師ご生誕地智証大師父母嚢祖略図

 金倉寺は円珍の祖父和気道善が、光仁天皇の宝亀五年(774)に等身の如意輪観音堂を創建したことに始まります。円珍はこの地に生まれ、円珍が五歳の時に訶利帝母(漢訳で鬼子母神とも呼ばれます)が出現してその教法護持を約束したという伝説から「訶利帝母日本最初出現之地」と言われています。
 本尊は薬師如来で円珍の作と言われています。創建当初は道善寺と呼ばれ、円珍の父宅成の度々の奏上により文徳天皇の仁寿元年(851)に勅願寺となりました。その後、醍醐天皇の延長六年(928)に金倉の郷をとって金倉寺と名を改めました。
 この当時の金倉寺の領域は北は海に近く、三方は山に面していたそうで、迦葉尊者が入定したインドの鶏足山の大洞に似ていたので鶏足山と号すようになりました。

 

金倉寺中興の祖 算海法印金倉寺金堂

 全盛期には南北二里、東西一里余りの境内に神祠仏閣ば数十字、僧房が百三十二ヶ院、原田、木徳、垂水、岸上、眞野の五郷を寺領とし、勤務していた大衆は千餘人を数えましたが、建武の争乱(1334年~1336年)のため椋奪され、僧房はわずか二十七院残るのみとなってしまいました。その後の永正(1504年~1520年)、天文(1532年~1554年)の兵火に遭い、伽羅や重宝の多くは焼失してしまいました。しかし、幸いにして本尊は保つことができました。
 それから百餘年後、慈眼大師(南光坊天海僧正)の命により、その高弟である算海法印が天台霊蹟の復興のために讃岐を訪れられ、高松藩主である松平頼重公を大壇主として、寛永十九年(1642)に伽羅を構営し、寺領を寄附されて、一郡一ヶ寺の祈祷所として再建されました。

 
Copyright (C) 2010 Keisokuzan Konzouji. All Rights Reserved.