比叡山へ
金倉寺は天台寺門宗の開祖智証大師の誕生寺として、天台寺門宗別格本山とされています。智証大師というのは醍醐天皇より送られた諡で、在世時は円珍という名のお坊さんでした。
円珍さんは日本の四大師の一人に数えられ、弘法大師空海と共に、二大師が讃岐国(現在の香川県)出身です。実は円珍さんの母は空海さんの姪で、円珍さんは空海さんの一族にあたるのです。
円珍さんが三歳の時、空海さんは幼き日の円珍さんを見て、その非凡な才能に「智慧童子」と名づけて、将来高野山へとやってくることを望んだと言われています。
円珍さんは弘仁五年(八一四)に讃岐国那珂郡金倉郷(現在の金蔵寺町・金倉町一帯)で生まれ、幼少の頃の名を広雄といいました。八歳の時には『因果経』というお経を読みたいと言い父を驚かせ、十歳の頃には『毛詩』・『論語』・『漢書』・『文選』などを暗誦できたという程賢い子供でありました。
円珍さんは十四歳の時、故郷を離れ、京へと入ります。そこで叔父の天台僧である仁徳に随い、比叡山に登るのですが、その器の大きさに、仁徳は自分の手には余ると考え、当時の天台座主であった義真和上に託されるのでした。
金色不動
仁徳は円珍さんを義真和尚に託す時、次のような推薦文を添えました。
「児は器宇宏遠にして誠に凡流に非ず、吾れはこれ短綆の量、その深浅測り難し。すべからく業を碩学に請うて彼の大成を期せしむべし。」
仁徳は円珍さんの器が深く、自分の短い釣瓶のような力では、その才能を汲出すことができない。そこで比叡山座主義真和尚に指導して貰いたい、と言うのです。
仁徳の想いも通じ、円珍さんは義真和尚の下で四年間の勉学と修行に励み、見事十九歳で僧となるための国家試験に合格します。そして比叡山での十二年の籠山行に入ることになるのです。
円珍さんの比叡山での修行は主に密教を中心としたものでした。そんな籠山五年目の冬、石室で座禅をしていた円珍さんの前に突然金色に輝く異相の人が現れ、「私の姿を図画し、丁寧に拝みなさい」と言いました。円珍さんが「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は金色不動明王である。あなたの人格が極めて高く仏法を尊ぶ心が深いため、私はあなたを守護しましょう。」と答えました。
この時図画されたものが園城寺に伝わる「不動明王像」(黄不動尊)と言われています。
真言学頭へ
金色の不動明王が円珍さんの前に姿を現してから二年後の承和七年(八四〇)、不動明王は再びその姿を現し、円珍さんに灌頂を授けました。この灌頂とは密教修行によって仏と同じ位に至ったことを証明する儀式であり、不動明王より直接授かったという伝説からも円珍さんの修行の激しさが伝わってきます。
四年後の承和十一年、円珍さんは無事に十二年の籠山行を満行しました。籠山行を終えた円珍さんは南紀大峯山に向かい、かつてこの地で山林修行をしたという役小角に習って、那智の滝の下で千日間修行をした、と伝えられています。山林修行とは古来より日本に伝わる修行法であり、現在でも「修験道」として大峯山では多くの修行者の姿を見ることができます。
承和十三年七月、比叡山の総意で円珍さんを真言学頭に推薦しました。当時の比叡山は空海さんが弘めた真言密教に対して、密教の研究がまだまだ及ばない状況でした。そこで比叡山の僧侶達は仏教に対する理解が深く、他の学問でも通じない所がない円珍さんを真言学頭にして、真言密教を凌ぎたいと考えたのでした。
こうして円珍さんは比叡山の真言学頭として、親戚である空海さんの真言密教と相対することになるのでした。
城山四王院にて
円珍さんが真言学頭となって四年後の嘉祥三年(八五〇)、今度は比叡山の神様である山王権現が円珍さんの夢に出てきて「唐の国に渡って仏法を求めよ」と勧めたため、入唐を決意したのでした。
翌年の仁寿元年(八五一)入唐船を待つために太宰府に到着した円珍さんは、城山の四王院(福岡県糟屋郡宇美町四王寺)に寄住することになりました。
円珍さんはこの地で過ごした約二年の間、祈祷と執筆に余念がありませんでした。特に注目されるのは『大毘盧遮那経指帰』(『大日経指帰』)と題された著作です。
この書物は密教経典である『大日経』が『法華経』に劣らず優れていることを説いた著作です。しかしこの著作で円珍さんは驚くべきことを書いています。それは同じく空海さんが密教が優れていると説いた『秘密曼荼羅十住心論』に対して、「論となすに足らざるのみ」と批判していることです。
これまで密教と言えば空海さんの真言宗が一歩も二歩もリードをしていました。そのため天台宗は新しい密教を生みだす必要がありました。その新しい密教が今、空海さんと同じ佐伯の血を継ぐ円珍さんによって生みだそうとされているのでした。
城山四王院にて
仁寿3年(853)7月15日、円珍さんは唐の商人、王超と欽良暉の船に乗り、翌16日に博多を後にして、値嘉島の鳴浦(長崎県五島市奈留町)で風待ちのため停泊しました。
当時の航海は、季節風だけが頼りの大変なものでした。例えば、延暦23年(804)、遣唐船として四隻が派遣されましたが、最澄さんが乗船した第一船は52日、空海さんの乗船した第二船は40日、さらに残り二隻は海の藻屑となってしまうという有様でした。
この頃に、円珍さんは次の歌を詠んでいます。
法の船 さしてゆく身ぞ もろもろの
神も仏も われをみそなへ
仏法を求め、船に身を任せてゆく私達を、諸神も諸仏も、どうぞお護り下さい。円珍さんの気持が素直に出ている歌だと思います。
8月9日、強い東風に乗って、いよいよ出帆しました。4日目の夕に吹いた北風に流され、翌14日の朝には陸地が見えてきました。その地は琉球の国(台湾)で、当時は食人の地と信じられていました。
そこで円珍さんは、一心に不動明王を念じたところ、三度金色の不動明王が現れ、北風がたちまち東風へと変わり、翌日昼頃には、福州の連江県(福建省連江県)に着岸したのでした。時に唐の大中7年8月15日でした。
YUJ第7号へ続く
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