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金倉寺かわら版

玉木文之進と吉田松陰乃木将軍

 乃木将軍こと乃木希典は嘉永二年(1849)十一月十一日に長府毛利藩士乃木希次と母壽子の三男として生まれました。幼名は無人といい、十歳の時に長府に帰国し、十五歳で元服しました。十六歳の時、吉田松陰の叔父で乃木の親戚でもある玉木文之進に入門し、ここで乃木の軍人としての素養を培いました。十八歳で四境戦争に出陣、これが軍人乃木希典としての第一歩でした。その後、秋月の乱、西南戦争と出陣し、連隊旗喪失という乃木最大の汚点を経験しつつも軍人として着実に成長していきました。明治十一年(1878)には静子結婚、翌年長男勝典、その二年後に次男保典の誕生と公私共に順風満帆でした。その後も東京鎮台参謀長、歩兵第十一旅団長と歴任した後、明治二十年に川上操六とともにドイツへ派遣。翌年帰国し、この時を境に後世に伝わる厳格な軍人乃木希典が形成されたようです。

 

日露戦争と殉死 妻返しの松

 明治二十七年七月に朝鮮問題に端を発して日清戦争が勃発、乃木は第一師団の第一旅団長として旅順、大連方面を攻撃しました。この戦争での乃木の活躍はめざましいものであり、その勇名は一躍世間に響き渡りました。この功績によって第二師団長となった乃木は、割譲を受けた台湾の反乱を鎮圧、台湾総督に任ぜられますが、失政により半年後に辞任してしまいます。その七ヶ月後に第十一師団長として復帰、金倉寺を寓居として約三年間その任を勤めました。明治三十七年日露戦争が勃発、乃木は第三軍司令官に任ぜられ二〇三高地の戦いを経て旅順を陥落。日露戦争の勝利に大きく貢献しました。凱旋後の明治四十年には学習院長に新任され、裕仁親王(昭和天皇)の教育にも尽力されました。明治四十五年七月三十日に明治天皇が崩御されると九月十三日の御大葬を見送り、静子夫人ともに自刃いたしました。

 

 
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