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乃木将軍 年表

 ここでは昭和53年講談社より発行されました黒木勇吉『乃木希典』より年表を抜粋して掲載します。

和暦 西暦 年齢 事          跡
嘉永 2 1849 1歳 11月11日午の上刻武蔵ノ国江戸麻布日ヶ窪町、長府毛利候上屋敷内の宅に誕生。幼名は無人。父は十郎希次、世々毛利家の定府侍医たりしも、武芸に秀でしため馬廻に取立てられる。母は寿子、常陸ノ国土浦藩士長谷川金太夫長女。兄弟7人中の第3子。
3   1850   2歳    
4   1851   3歳    
5   1852   4歳    
6   1853   5歳    
安政 1   1854   6歳   7月3日弟真人生る。
2   1855   7歳    
3   1856   8歳   正月より麻布六本木町島田松秀に句読、習字を学ぶ。
4   1857   9歳   正月より芝赤羽町松岡義明に小笠原流の躾方を学ぶ。
5   1858   10歳   9月7日、妹イネ生る。
11月、父母に伴われ弟妹と江戸を出発し、12月、長門ノ国豊浦に到着す。希次閉門、減禄に処せらる。
6   1859   11歳   4月より結城香崖に漢籍、詩文を学び、10月より江見後藤兵衞に武家礼法、弓馬故実を学ぶ。後の夫人―静子、11月27日、鹿児島に生る。
万延 1   1860   12歳    
文久 1   1861   13歳   正月より工藤八右衛門に人見流馬術、小島権之進に日置流弓術、多賀鉄之丞に洋式砲術を学ぶ。
2   1862   14歳   正月より中村安積に宝蔵院流槍術、黒田八太郎に田宮流剣道。
3月より福田扇馬に兵書、歴史を学ぶ。
3   1863   15歳   6月16日、藩学敬業館内の集童場に入学す。
12月、元服し、名を源三と改め父より吉田松陰著『武教講録』を手写して与えらる。
元治 1   1864   16歳   3月、萩に至り、玉木文之進の門に入り修学。実は無断家出し玉木家に寄食、農業に従いしなり。
慶応 1   1865   17歳  

正月、玉木文之進の門に正式入門を許され、図書並に漢籍を学び、師より松陰真筆の『士規七則』を授けらる。
9月、萩藩学明倫館文学寮に通学し、11月、栗栖又介に一刀流剣道を学ぶ。

2   1866   18歳   正月9日、弟集作生る。
4月、萩より豊浦に帰りて兵務に就き、5月より山砲一門の長として豊前の国に出戦す。10月2日、奇兵隊と合し、山県狂介(後の元帥、有朋)、会田春介(後の陸軍中将子爵三好重臣)の指揮を受け、山砲を以て徳力村の塁を破り、呼野―福岡県企救郡東谷村呼野―に於て左足甲に銃弾擦過傷を受く。
名を文蔵と改む。
3   1867   19歳  

正月、宗藩に依りて萩藩学明倫館文学寮に入学し、寄宿生となる。

明治 1   1868   20歳   正月、栗栖又介より一刀流の目録を伝受す。
4月末、誤りて左足を挫傷し、7月、文学寮を退学す。
2   1869   21歳  

正月、報国隊の漢学助教―読書係―となり、数日にして罷む。
12月、藩命に依りて仏式練習のため伏水(伏見)御親兵兵営に入営す。

3   1870   22歳  

正月、山口藩旧諸隊暴動に付、鎮圧のため帰藩を命ぜられ、山口金古曽に戦う。3月伏水に帰営(桂弥一外5名同行)す。
7月、京都河東御親兵練兵係として京都に滞在し、12月20日、藩命に依り退営、帰藩す。

4   1871   23歳   1月10日、豊浦藩陸軍練兵教官を命ぜられ、第一次に御親兵、第二次に鎮台第二分営に出張仰付けらる。
12月、旧佐賀藩兵より成る歩兵二中隊を率いて信州上田に出張し、城郭を収めて分営を創設す。
14日、正七位に叙せらる。名を希典と改む。
5   1872   24歳   1月より2月まで信州諸藩の城郭及び武器全部の還納を了し、2月22日、御用有之出京を命ぜられ、27日、東京鎮台第三分営尾州名古屋に出張を命ぜらる。
静子時に14、父母と共に上京す。
6   1873   25歳   4月15日、名古屋鎮台大弐心得仰付けらる。父希次を長府より迎う。
5月、金沢営所に出張。旧津藩及び旧彦根藩兵より歩兵二中隊を率い、県庁より金沢城を収めて分営を創設。希次をも伴う。
6月25日、叙従六位。
7   1874   26歳   3月、名古屋に帰り、5月12日、家事故ありて辞表提出。聴れず、非職(四ヶ月)帰郷。
6月 、母寿子、弟妹を長府より東京に伴う。
9月、陸軍卿伝令使仰付。
8   1875   27歳   9月30日、依願習志野野営演習参謀仰付けらる。
12月4日、陸軍卿伝令使を免じ、熊本鎮台歩兵第十四連隊長仰付けらる。
9   1876   28歳   10月25日、秋月の賊追討仰出され、小倉城警備、後に部下聯隊を率いて豊前ノ国豊津に出張す。
26日、前原一誠挙兵、玉木正誼之に参加して31日戦死し、11月6日、玉木文之進自刃す。
12月3日、前原一誠刑死。
10   1877   29歳   1月20日、小倉営所司令官兼勤仰付けられ、西南役に参加す。
22日、部下聯隊の一部を率いて熊本城に入らんとして果さず、植木付近に於て軍旗を失う。
27日、肥後ノ国玉名村に於て左足背骨貫通の銃創を受く。
3月21日、当分出征第一旅団参謀兼勤仰付けらる。
4月9日、肥後ノ国山本郡辺田野村に於て左腕貫通銃創を蒙る。
4月22日、陸軍中佐に任じ、歩兵第十四聯隊長、小倉営所司令官並に出征第一旅団参謀兼勤を免じ、熊本鎮台幕僚参謀仰付けらる。
10月31日、希次東京に於て病没す。
11   1878   30歳   1月26日、熊本鎮台参謀を免じ、歩兵第一聯隊長に補せられて東京に住す。
30日、鹿児島逆徒征討の功に依り勲四等に叙し、年金180円下賜。
6月25日、歩兵弾薬盒洋式に儀に付砲兵会議に出席仰付けらる。
8月27日、鹿児島藩士湯地定之四女阿七(シヅ)と結婚す。静子時に20歳。
12   1879   31歳   歩兵内務書第三版取調係兼務。
8月28日、午後9時長男勝典生る。
9月3日、静子(戸籍面はシチ)入籍す。
11月、赤坂新坂町55番地に邸宅を設け、芝西久保桜川町より移転す。
12月20日、正六位に叙せらる。
13   1880   32歳   4月28日、歩兵大佐に任じ、6月8日、従五位に叙せらる。
22日、実地演習視察のため伊勢ノ国亀山地方に出張す。
14   1881   33歳   8月6日、村田銃並に「ビボーマルチニー」銃弾製造取調委員仰付けらる。
12月16日、次男保典生る。
15   1882   34歳   1月3日、岳父湯地定之没す。
12月25日、歩兵弾薬携帯具様式取調の件につき砲兵会議員仰付けらる。
16   1883   35歳   2月5日、本職を免じ、東京鎮台参謀長に補せらる。
7月7日、各営所巡視並に沿道地理実検のため管下を巡回す。
11月9日、御用有之宇都宮営所に出張す。
17   1884   36歳   4月17日、御用有之佐倉営所及び房総海岸地方に出張し、5月22日、高崎分営、新発田分屯隊並に新潟、静岡両駐在所を巡視し、沿岸地理実査のため巡回す。
11月20日、歩兵第二聯隊第三大隊長途行軍演習視察のため群馬県妙義町地方に出張す。
18   1885   37歳   2月9日、御用有之神奈川県三浦、鎌倉、久良岐三郡及び房州館山地方に出張す。
4月7日、勲三等に叙し、旭日中綬章を賜う。
5月21日、陸軍少将に任じ、歩兵第十一旅団長に補せらる。
7月25日、正五位に叙す。
19   1886   38歳   4月18日、長女恒(ツネ)生れ、7月13日、熊本において死亡す。
10月28日、従四位に叙せらる。
11月30日、御用有之ヨーロッパに差遣、ドイツ国留学仰付けらる。陸軍少将川上操六と同行。
20   1887   39歳   ドイツ留学中。静子時に29歳。
21   1888   40歳   6月10日、ヨーロッパより帰朝す。
8月31日より第十一師団管下各県徴兵署を巡視す。
22   1889   41歳   3月6日、三男直典生る。
9日、本職を免じ、近衛歩兵第二旅団長に補せらる。
5月20日、直典逝く。
23   1890   42歳   7月25日、本職を免じ、歩兵第五旅団長に補せらる。
24   1891   43歳   4月、栃木県那須郡狩野村石林に別荘を設く。吉田品子より金1,300円許にて譲受く。
5月10日より第五旅団管下各徴兵署を巡視。
10月、震災の砌名古屋市被害者に救助として金員施与に付褒状下賜。
25   1892   44歳   2月3日、休職仰付。休職九ヶ月。
12月8日、歩兵第一旅団長に補せらる。
26   1893   45歳   4月11日、正四位に叙。
7月16日、第一旅団管下各府県徴兵署を巡回。
27   1894   46歳   5月29日、勲二等に叙し、瑞宝章を賜う。
8月30日、動員令下る。部下旅団を率いて東京を出発。
10月6日、日清役に参加。
24日、清国花園口に上陸。
11月21日、旅順陥落。
28   1895   47歳   4月5日、陸軍中将に任じ、第二師団長に補。
8月20日、戦役の功に依り功三級金鵄勲章並に年金700円及び旭日重光章下賜。特旨を以て男爵を授け、華族に列せらる。
9月8日、金州大連湾を出帆し台湾征討に。
10月22日、台南に進入。
10月27日、南部台湾守備隊司令官仰付。
11月18日、戦役従軍記章を授与。
29   1896   48歳   4月20日、凱旋、仙台に入る。
7月13日、静子夫人の生母天伊子逝く。
10月14日、台湾総督に任ぜらる。母堂寿子を奉じ、夫人を伴う。
11月9日、着台。
12月21日、叙従三位。
27日、母堂寿子病没。
30   1897   49歳   4月1日、金1,000円を賜う。
6月26日、勲一等に叙し、瑞宝章を賜う。
31   1898   50歳   2月26日、願に依り台湾総督を免じ、休職仰付。休職7ヶ月。
10月3日、第十一師団長に補せられ、単身赴任。
32   1899   51歳   第十一師団長在職中。
33   1900   52歳   第十一師団長在職中。
7月、丸亀歩兵第十二聯隊第三大隊北進事変を従軍す。
8月14日、列国連合軍北京の重囲を解く。
12月22日、清国事件講和成る。
34   1901   53歳   5月22日、休職仰付けらる。
35   1902   54歳   休職中。東京又は那須の邸宅を来往して晴耕、雨読。現在の新坂町の家屋を新築す。
36   1903   55歳   休職中。
37   1904   56歳   2月5日、動員令下り、留守近衛師団長兼近衛歩兵第一旅団長仰付けらる。
3月19日、勝典及び保典共に出征。
5月2日、第三軍司令官に補せらる。
5月26日、勝典金州に於て負傷 27日、死亡。
6月1日、宇品出帆 6日、陸軍大将に任ず。遼東塩太澳に上陸。
12日、正三位に叙せらる。
11月30日、保典二〇三高地背面に於て戦死す。
38   1905   57歳   1月1日、露将ステッセル旅順開場の旨使者。
2日、開城の約成る。
5日、水師営に於てステッセルと会見。
14日、入城式を挙行。
24日、旅順を発して北進、奉天戦に参加す。
12月29日、法庫門を出発し、凱旋の途につく。
39   1906   58歳   1月1日、旅順に入りて各砲台を巡視 6日、大連発。
10日、宇品上陸 14日、直に参内す
26日、軍事参議官に補せらる。
4月1日、戦役の功に依り功一級金鵄勲章並に年金1,500円、桐花大綬章を賜い、従軍記章を授与せらる。
7月6日、第五、第六、第十二師管特命検閲使仰。
8月25日、宮内省御用掛仰付けらる。
9月8日、プロシヤ皇帝贈与の「プール・ルメリット」勲章を受領、佩用することを允許せらる。
40   1907   59歳   1月31日、軍事参議官を以て学習院長に兼任す。
4月16日、フランス共和国政府より贈与の「グラン・オフィシエー・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドノール」勲章を受領、佩用することを允許せらる。
8月30日、叙従二位。
9月21日、特に伯爵を陞授せらる。
41   1908   60歳   5月27日、御用有之満州に差遣され、旅順小案山子東麓の露国戦死者建碑除幕式に参列す。
42   1909   61歳   軍事参議官兼学習院長在職中。
4月28日、チリ―国政府贈与の金製有功賞を受領、佩用を允許せらる。
11月28日、白玉山表忠塔竣工式に参列のため旅順を訪い、静子夫人と共に戦没せる両典の跡を弔う。
43   1910   62歳   軍事参議官兼学習院長在職中。
8月、中耳炎に罹りて赤十字病院に入院し、11月、退院。
44   1911   63歳   2月14日、東伏見宮依仁親王、同紀両殿下グレートブリテン皇帝戴冠式参列に付随行仰付けらる。
4月12日、横浜出帆。
6月7日、英国に上陸し、戴冠式に参列す。
7月2日、フランス 9日、ドイツ 17日、ルーマニア 21日、トルコ訪問。更にブルガリア、セルビア、ハンガリーを経由し、8月10日、ベルリン著、ドイツ皇帝統裁の演習を陪観す。
8月16日、モスコーを通過し、シベリア鉄道経由、28日敦賀上陸帰朝す。
10月5日、ルーマニア皇帝贈与の「グラン・クロア・ド・ロルドル・ドレトワール」勲章並にグレートブリテン皇帝贈与のグレートブリテン皇帝、皇后戴冠記念章を受領、佩用することを允許せらる。
大正 1   1912   64歳   5月10日、グレートブリテン皇帝贈与の「グランド・クロツス・オヴ・ゼ・ヴィクトリア」勲章、6月5日、同国皇帝贈与の「グランド・クロツス・オヴ・バス」勲章を何れも受領、佩用することを允許せらる。
9月1日、英国後続アーサー・オヴ・コンノート親王大喪儀参列の為来朝に付接伴員仰付けらる。
13日午後8時、東京市赤坂区新坂町55番地の自邸において、明治天皇の御跡を追いて殉死し、倶に夫人も希典に殉じて自殺す。静子時に54。
大正 5   1916       11月3日、皇子裕仁親王の為に立太子の礼を行わせらる。この日乃木希典特旨を以て正二位を贈らる。

 

 
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