いろは歌01

さて、第14~16号まで、3号にわたり智証大師に関連する特集が一段落しました。
第17号では少し変化をつけて、「いろは歌」について書いてみたいと思います。

※この記事はYUJ第17号(平成24年4月中頃発行予定)の草稿です。
http://www.kagawa-konzouji.or.jp/yuj/


いろはにおへと ちりぬるを  (色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそ  つねならむ  (我が世誰ぞ 常ならぬ)
うゐのおくやま けふこえて  (有為の奥山 今日越えて)
あさきゆめみし ゑひもせす  (浅き夢見じ 酔ひもせず)

いろは歌の最大の特徴とは、47字の仮名(「ん」を除く)を全て1度ずつ配置してできた詩であるということでしょう。
さらに、このいろは歌は仏教の「無常偈」に通じると、新義真言宗の祖である覚鑁がいいます。
無常偈とは「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」というものです。
その意味は次のようになります。

諸行無常  諸行は無常なり
是生滅法  是れ生滅の法なり
生滅滅已  生滅を滅し已れば
寂滅為楽  寂滅をもって楽と為す

つまり、「あらゆるものは無常であり、生じては滅するものである。生滅そのものを滅することができたならば、それは寂滅(全てを滅しきった状態)であり悟りの姿である」というこです。
この無常偈といろは歌がどのように対応するのでしょうか。

色は匂へど 散りぬるを
※色とは仏教用語で存在そのもの、つまり、あらゆる存在は感じる(匂う)ことができるが
 いつしか散り、その存在自体がなくなるということ→諸行無常
我が世誰ぞ 常ならぬ
※私の人生や他の人も、永遠であるものなどあるであろうか→是生滅法
有為の奥山 今日越えて
※有為とは生滅の法、先の句にかかる
 つまり、人の世につきまとう生滅の法を今まさに乗り越えて→生滅滅已
浅き夢見じ 酔ひもせず
※浅い夢など見ず、それに酔うこともあるまい→寂滅為楽

「有為の奥山 今日越えて → 生滅滅已」までは確かに当てはまると思いますが、最後の「浅き夢見じ 酔ひもせず → 寂滅為楽」は正直疑問が残ります。
本当にいろは歌は無常偈を和訳したものなのでしょうか。

そこで、違う見方をしてみましょう。
このいろは歌を7字ずつの韻文として並べてみましょう。

いろはにおへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
  ゑひもせす

さてこの韻文の末の後を1字ずつ拾うとこんな文章が出てきます。

とかなくてしす  咎無くて死す

咎無くて死す
※悪い行いをすることも無く死ぬ→寂滅為楽

いろは歌に隠されたもう1つの文、これが真実なのでしょうか。